Penguin's holiday

できればずっとねていたい

「うちの猫、死んだんですよ。」

少し前、仕事の終わり際に前の席の同僚がそう、ぽつりとつぶやいた。
確か、ここ最近訃報が続きますねー、といった内容の雑談の流れでだったと思う。

彼女の猫は病気を患っていて、彼女はここしばらくその看病を続けている最中だった。

お互いにまだ作業中だったのでその時はそうなんですね…と一言返事をして、そこで会話を中断してそれぞれ仕事を再開。

しばらくして一緒に仕事を上がったので、二人で一緒に歩いている途中、「お疲れさまでした。」と伝えると、ぽつりぽつりと彼女は猫が亡くなったときのことを語ってくれた。
彼女は、ペットを飼ったことのある自分から見てもとても深い愛情を猫に注いでおり、よくある表現だけど、まるで子どものような可愛がり方をしていた。その分、失った悲しさもきっと人一倍、なんだと思う。

「私、こんな悲しい思いをするなら、もう猫を飼いたくないです。」

うつむいた彼女にそう言われて、自分は咄嗟に、

「きっと、大丈夫ですよ。」

と返した。

しかし、今にして考えると、なんだか心無い言葉だったかなぁと思う。自分が当人だったらなにが大丈夫だよ…と思うだろうなぁとも。

自分はあまり根拠のない励ましが好きではなくて、とりあえず元気出しましょう!とか落ち込んでいる人に口が裂けても言えないんだけど、今回は全く根拠が無いわけではなくて。

 

突然だけど自分の実家では犬を飼っていて、現在三代目。
三代目になるということは、これまでに一代目、二代目がいたということ。

 

一代目は、自分が高校へ入学した年にやってきた。
なんで犬を飼うことになったのか覚えてないんだけど、自分と妹は長いこと犬を飼いたい!!と主張していて、両親がついに折れて飼うことになった…とかだったと思う。母が新聞に掲載されていた「子犬あげます。母親が柴犬の雑種です。」という投書を発見し、飼い主さんに連絡してみんなで引き取りに行くことに。
母親は柴犬で、父親はわからないという雑種。とはいえ、見た目はほとんど柴犬で、言われないと雑種と気づかないほど。丁度生まれて3ヶ月、コロコロ・まるまるのまさに可愛い盛りでひと目で虜にされてしまった。

一代目の家での地位は家族の誰からも可愛がられ愛される、まさしく「お犬様」。
飼い始めた当初は全く関心を示さなかった父も気がつくと夢中になっており、仕事から戻るとスクーターに乗せて散歩に行ったり、休みの日は一緒に山登りに行ったり。当時、まだ働いてた父は気難しいところもあったけど、犬がやってきてからはずいぶんと丸くなった気がする。
しかし、まぁ、父以上に母がとにかく可愛がってた。「子どもより全然可愛い」とか普通に言っちゃってたし…。

その一代目が死んだのは確か7歳の時。

ガンだった。

見つかったときにはかなり進行していて、どうしよもなくて、でもどうにかしたくて、効くかわからない抗がん剤を投与したりと出来る限りの治療を行った。
しかしやはり効き目はなく、日一日とやせ細り、急激に弱っていく。
そして、最後の望みを託し手術を行ったけど、結局は摘出出来ない箇所に転移しており、それ以上の治療は出来ない、ということがわかっただけで終わった。

一代目はその手術の数日後に息を引き取った。

預けていた病院から連絡が入り、自分と母の二人で引取りに向かった。
病院について一代目の亡きがらと対面したとき、母が泣きながら一代目の体をゆっくりと撫で、「最後に痛い思いをさせて、ごめんね。」とつぶやいた声が今でも印象に残っている。

家に連れて帰ってしばらく母とぼんやり過ごした後、火葬してもらうためにペット霊園の人に引き渡したんだけど、ああ、これでもう、本当にお別れなんだ、二度と一代目と会うことはないんだなーとぼんやり思って、また泣いた。

一代目の話はここまで。

 

で、二代目を飼い始めたのは、一代目が死んでから数年経ってから。

また誰が言い出したか思い出せないんだけど、「そろそろまた犬を飼おう」という話になって、例によって母が新聞の投書コーナーから「柴犬系雑種の子犬、差し上げます」という投稿を見つけ出し貰い受けることに。

もらわれてきた二代目を見たときの家族全員の印象は…「柴犬?????」だった。
というか全く柴犬に似ても似つかなくて「柴犬系」と呼ぶにはかなり語弊がある。柴犬というよりは洋犬風の毛並み、極端に大きい耳、そしてなにより受け口でアゴが飛び出ている…。一代目が二枚目の美人犬だとすると、二代目はなんというか、ひょうきんな三枚目、といった風情だった。たぶん、みんな柴犬風の犬を期待していたから若干ガッカリしてたんじゃないかと思う。

しかし住めば都というか飼ってるとだんだん可愛く見えてくるもので(というか実際可愛かったんだけど!)、やっぱりみんなのお犬様としてものすごく可愛がられていた。
なんというか性格が非常にいじらしく、控え目で、おっとりとしたおとなしい犬だった(そこがまた可愛い!!!)。

二代目がいなくなったのは、ある日突然だった。
雷の音にびっくりして逃げ出し、そのまま行方不明になったのだ。

これまでも逃げ出したことはあったから、始めは近所を回れば見つかるだろうと軽く考えていたけど、探せども探せども出てこない。家族総出で探したけど見つからないまま夜になり、流石に誰も楽観できない状況に。

それから数カ月間、必死の捜索を行った。
「迷い犬探しています」という貼り紙をあちこちに貼り、似たような犬を見かけたという情報が入ったら急いで向かい、近辺をくまなく捜索…という流れの繰り返し。
時には「似たような犬の死骸がある」といったドキッとするような情報や(うちの犬ではなかった)、「その犬、今うちにいますよ」と言ってきたきりそれから連絡が取れなくなる…というよくわからないガセ情報があったり。

この時も、最後まで一番一生懸命に二代目を探したのは母だったと思う。

知り合いに片っぱしからビラを配って情報を求め、アテがない時も色々な場所を回り、時間が許す限り探し回っていた。

そして、3、4ヶ月くらい探したけど結局見つからず、母も体力的に限界がきていたので、「これで終りにしよう」と決めて、捜索は打ち切られた。

あまりにも居なくなったのが突然で、一代目の様に死に目を見たわけでもないので、なんとなくまだどっかで元気に過ごしてるのかなーとぼんやり思ったりもする。そうだったらいいなぁ…。

二代目の話はここまで。

 

そして、今、三代目である。
一代目、二代目の経験があったから、我が家でもう犬を飼うことはないだろうと思っていたけど、ひょんなことから三代目はやってきた。(詳しい事情はちょっと割愛)

そしてやっぱり「お犬様」で、家族全員、特に母は我が子のように…というか我が子以上に可愛がっている。母は「自分の年を考えるとこれ以上犬を飼うことはないだろうから、このこで最後だね。」みたいなことを言う。

いつでも、我が家の中心には犬がいる。

 

一代目を飼い始めたとき、一代目が死ぬということが考えられなくて、というか考えるだけで悲しすぎて、恐怖で胸が締め上げられるほどドキドキした。想像しただけで泣きそうになることが何度かあった気がする。
しかし、別れは突然にやってきて(二代目なんて、本当に突然)、悲しくて悲しくてたまらなかったけど、次の日からまた普通の生活が始まり、少し欠けたままでも毎日は廻っていく。
家族の中でもいつしか共通の暖かい記憶になり、今でも「そういえばあの時さ・・・」といったかんじで思い出話に花を咲かせたりなんかする。

たまに、三代目がいなくなったときのことを想像すると、やっぱり悲しい気持ちになるけど、一代目のとき感じたようなよくわからない恐怖はなくて、自分の心は三代目がいなくなることを理解していて受け止めている。いつかいなくなることが分かっているから今が大事で、愛おしいんだと思える。

 

大事な存在が居なくなってぽっかりと空いた穴は埋まらないけど、なんというか、優しい記憶・・・例えば自分は犬たちを撫でたときの手触りをものすごく細かく記憶してて、一代目はすこしゴワゴワしてて首の周りの白い毛だけ滑らかでつやつや、とか、二代目はうさぎの毛の様にフワフワと柔らかい、とか・・・そういったモノが代わりに収まるのかなーとか思ってみたり。

空いた穴には、最初は寂しさとか悲しさとか、辛い感情が居座っているけど、多分、そういった気持が溶けた後に残るのは優しいくて暖かい気持ち。

 

だから、「きっと、大丈夫ですよ。」